「お手伝い」は「介護のセンス」を磨く?

「お手伝い」がもたらす「ボランティア精神」や「介護」への影響って何だろう。

何かしら関係があるだろうな。

そして、そもそも自分から進んで「お手伝い」ができる人、

子供、大人関係なくどのくらいいるんだろう。

 

最近、そんなことを考えながら介護をしています。

 

私は、今どき珍しい8人兄弟で、祖父母と両親と暮らし育ちました。

 

家族みんなが何かと協力し合いながらでないと、

両親、特に母親は朝早くから夜遅くまで、夜中でも、

一人で子育てをして家事をしないといけません。

育児や家事とひとことで言っても、子育ての経験がある人ならわかると思いますが、

子供一人でもその心身にかかる負担は結構なものだと思います。

父親はほとんど家事的なことは何もできない人であれこれ母に注文をする人なので、

8人の子供+α(父親)ですから、それこそ母は休んでる暇などありません。

 

いまになってよくよく思い返してみると、

座ったなと思うと、すぐに席を立って何かしているという状況でした。

でも、私の母はそういう状況でも、よく笑っている人でした。

いつ声を掛けてもうるさがるような表情や言葉を発したことがありませんでした。

大変そうだなと思ってお手伝いをすると、母も祖母もよく褒めてくれました。

「あら、上手だね!」

「すごいね、そんなことができるの?」

「お母さんとおばあちゃん、助かっちゃうな。」

「今日は、お手伝いしてもらったから、ゆっくり休めるよ。ありがとうね。」

なんてことをよく言ってくれました。

そして、それは意図的なのかどうか分かりませんが、

母も祖母も他の兄弟や家族がいる場所で言うんです。

なので、他の兄弟が特に自分より年下の子たちが「褒められること」を羨ましく思って、

次からは同じように真似て「お手伝い」をするようになってました。

ひどいときは、「お手伝い」の取り合いみたいなことになってしまって・・

あちこちでまとまりなく子供たちが動くので

母と祖母の目が行き届かず気づいてもらえず誰も褒められないみたいなこともあって(笑)

 

自分が幼い頃にお手伝いをして得た感覚は、

いまでも思い出すと母や祖母の笑顔がふっと浮かんできて

私に満足感や充実感を与えてくれます。

手伝ったことなんて、母と祖母が調理している間に食卓に箸や茶碗を運んで並べたり、

洗濯物をいっしょにたたむ程度の簡単なことでしたけど、

そんなちょっとしたことでも感謝されたことで

自分が家族の役に立てるという実感でした。

 

声を掛けたときは笑顔だけど、動いている時は大変そうに見えるその表情や姿を子供ながらに見て感じ、

自分ができることをやってきたお手伝いで褒められたことは、私の自己有用感を育んでくれました。

この自己有用感は、大人になるにつれて

自然と「自分は社会で役に立つ人になりたい」と思うようになり、

いまでも、「自分が何をすればその人が笑顔になるのか」ということを

自然に考えることにつながっています。

 

いま、私たちが行っている在宅介護の支援は、

有償ボランティア活動として行っている事業だということを話すと、

「お手伝い」や「ボランティア」という言葉に対して

「それをやると何かもらえるの?」と返してくる方がほとんどです。

自分が誰かのために何かを行ったことに対する見返りや報酬を期待する人が多いように感じます。

それから、その場面ごとに何を手伝えばいいのかの判断ができないという人もいます。

言葉を変えると「気が利かない」とも言えると思いますが、

こういうことを通じて、幼少期からの家庭内における教育という部分で「お手伝い」をするというのは、

人間性を育む大切な学習の機会ではないかなと思います。

 

「お手伝い」が自然と身についている人は、

あれこれ考えなくても相手の様子や動きを見て、気持ちを察し、

考えている間に行動しています。

 

介護の場面では、こういうことが最重要視され、必要とされます。

それは、ある意味「介護のセンス」じゃないかなとも感じます。

 

私はひとりの大人として、

また、ボランティアの力で在宅介護を支援する事業を行うひとりの人間として

家庭内だけでなく学内や地域において、

お手伝いを自発的に行う人の姿を見たときには、

積極的に感謝の言葉をかけていきたいです。

 

そういうことがよりよい介護人材を育成することや、

地域の支え合いを高めていく機会につながるものと思うからです。